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岩村城跡


岩村城跡

(財)日本城郭協会が認定する「日本百名城」に選定された山城。(岐阜県内では岐阜城と岩村城跡の2ヶ所のみが選定)。本丸周辺の石垣は“東洋のマチュピチュ”と呼んでも相応しいほど、遺跡をもイメージさせる壮大なつくりで、城マニアが感嘆のため息をもらすほどの石垣が、今も、当時の面影を偲ばせています。

“岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城。城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれています。
この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなく、その永い歴史に由来しています。1185年(文治元年)源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸期の300年間に亙り城と城主が連綿と続き、明治に至り廃城令で廃城されるまで、連綿と存続しました。
700年間に及ぶ城の歴史は、日本の城史にも例を見ないものなのです。

岩村城の規模 【元禄15年記録】
・標高 717m(本丸・最高所)
・城囲い 1,255m(但し一の門内)
・山回り 3,700m
・縄張り 本丸・二の丸・出丸・東曲輪・八幡曲輪・帯曲輪・藩主邸等
・石垣場所 31ケ所(1,700m)
・矢の倉(櫓) 11ケ所(三重1,二重9,一重1)
・多門 大小8ケ所
・門 大小17ケ所
・塀 43ケ所
・狭間 680ケ所(矢・鉄砲狭間)
・城内屋舗 10ケ所(藩主邸は別)
 

岩村城主と家紋

家紋

八百余年の歴史を持つ岩村城では、その主もまた時代とともに移り変わってきました。城を治めた武将たちの誇りを纏ったその家紋ですが、均整の取れたデザインは今見ても興味深いものばかりです。日本人の美的センスとその背景に隠されたそれぞれの物語をお楽しみください。(岩村城主と家紋pdf)

     

霧ケ城伝説(岩村城が別名「霧ケ城」と呼ばれる訳)

岩村城跡

岩村城は小高い山の頂にありながら、他の山城に比べて圧倒的に多い17箇所もの井戸がありました。
なかでも八幡曲輪にある霧ケ井は、城主専用の霊泉で、「巌邑府誌」という書物に、敵が攻めて来たとき、城内秘蔵の大蛇の骨をこの井戸に投じると、たちまちにして雲霧が湧き出て城を多い尽くし、城を守ったと記してあります。ゆえに、岩村城は別名を「霧ヶ城」と呼ばれています。
雨の前後に忽然と霧に姿を潜め、あるいは霧を吐き出してみせる城は、女城主・織田信長・武田信玄・森蘭丸・秋山晴近など、永い歴史の中で主役を演じた人々や城普請に駆り出された名も無い多くの庶民や戦に散った兵士達の想いを優しく静かに包み込むように佇み、来訪者を古に誘い込んでしまいます。

女城主伝説

岩村城跡

城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として、実質的に岩村城を守っていました。時は天正元年、当時、岩村城は織田と武田の力の均衡する位置にあり、武田信玄の家臣秋山信友率いる武田軍が岩村城を攻撃しました。しかし、要害硬固な山城である岩村城はそう簡単に落城するはずがありませんでした。いかにして攻めても落城しない岩村城をどうしたら自軍のものにすることができるのかと秋山は様々な策を練りました。

この間、城は落ちずとも、城下町(この頃の城下町は現在とは異なり、全く異なる場所にありました。現在の富田地区。)は武田軍により大きな被害を受け、このことに女城主は心を痛めていました。信友は数ある策のなかから、ひとつの策略を密使に託し、岩村城中に送り込みました。この時、秋山は驚くべき提案を女城主にしたのです。
“信友と結婚して無事に城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか” と。
女城主は、苦渋の決断を下しました。領民と家臣を守ることを条件に、この最も屈辱的な政略結婚の道を選んだのです。こうして岩村城は無血開城されました。
しかし、この大きな決断を下した女城主は、ある意味、信友の裏切りにあってしまいます。信友は信長の叔母と結婚した事を信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまいました。時に御坊丸は七歳でした。このことを伝え聞いた信長は激怒しましたが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので、そのまま放任せざるをえませんでした。しかし、織田信長は、岩村城を秋山信友に奪われたのを無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、ひそかに岩村城の奪還の期をうかがっていました。
天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に送り込みました。信忠の大軍は数日間激しく攻め立てましたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦した為、容易に攻略はならず、信忠は戦法を変更し持久戦をとりました。こうして6月から10月に至るまで数ヶ月の時が経ってしまいました。さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、ついに難攻不落の岩村城は陥落してしまいました。
信長は、秋山信友をはじめ女城主(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを岩村城外の大将陣(最近の説では岐阜の長良川)で、逆磔(さかさはりつけ)にして殺してしまいました。この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ、 「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」  と絶叫しつつ果てたといいます。
織田信長が本能寺で殺されるのは、それから七年後のことでした。
“いわむら”が“女城主の里”と呼ばれるには、自らをかえりみず、領民や家臣を守った心優しく凛とした「女城主」の伝説があったからにほかありません。

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